もう、今となっては
はっきりとは覚えていないところも
あるのだけれど
他の人との命比べには
なんの意味もないんだなぁ
と心から感じたのだと思う、
あの夜に。
だって
すべての命が
すでに
存在しているだけで
それぞれに特別なんだから。
無意識にだけど
そう感じていたんだと思う。
一つひとつの命が愛おしい♪
ここは、もう
無条件だったなぁ。
命だけを
無条件で観る時に
そこに生まれてくるのが
真の
祝福のおもい!
命ってあっぱれ♪
命、ブラボー♪
我が子だけではなく
すべての命が
本当に愛おしかった。
一つの命だけではなくて
たくさんの命の分を
悦べるでしょ。
そしたらね
自分から出したその思いが
自分に『効いた』。
結局
外側からくる言葉やら薬やら配慮やら、
それも大切だけど
自分で出す『思い』が
一番、自分に効くんだなぁ。
しあわせを左右するのは
自分の心なんだ。
それが
その後の
立ち直りの早さに
つながっていったと思うの。
人生の途中で落とし穴に落ちた。
そして、ケガした。
自分で処置した。
そして、またすぐに歩き出した。
みたいな。。。
それにしても
どん底のつらい状況の時に
シンプルに
自然に
命を祝福できたのは
なんでだろう?
と
我ながら
その『からくり』が知りたかった。
まったく無意識に
心の中で
きっとなにかの
スイッチが入ったのに
違いない。
ここの「なぜ?」を
紐とくことができれば
しあわせに生きるコツが
もっとはっきり
言葉になると思ったから
とても知りたかった。
というのも
私の人生史上
あの時が
最高に優しく
最高に穏やかで
最強の自分だった
と感じているからなのです。
そのあとの何十年の生活の中で
「ありゃりゃ~」っていう
ダメダメな自分の時もあるけれど、
かつて
いったんスイッチが入ったという
感覚を知っているのといなのとでは
人生の愉しさと悦びは
断然、違う。
思い出せば
天使な自分に戻ることもできるし。
そう、
あの時の感覚は不思議で
たとえば
人って
一生懸命励ますつもりで
言葉を大間違いすることがあるよねぇ。
『なんちゃって親切』
とでもいいましょうか(笑)
けっこう
言っちゃうの。
悪気なく。
そうだなぁ
「むしろ、
中途半端に長生きしなくて
良かったじゃない。
3歳とかまで生きて
もっとかわいくなってからだと
もっとつらかったよ」
「次は元気な身体に生んであげて」
とかね。
これ、
私が実際に子どもを亡くした直後に
まわりから言われた言葉。
たとえ
それが
愛のつもりで出した言葉であっても
そんなつらい状態の時に聞いたら
「そりゃ、ないよなぁ」
と思いそうなものなのに
ところが、なんと
当時の私は、
まったく大丈夫だったのです。
それどころか
どの言葉
どの態度にも
相手の愛が感じられている状態。
もうね、
「あー、この人なりの愛なんだなぁ。
ありがとう」
って本気で
瞬間的に思えていたんです、その時。
頭で考えてそう思うのではなくて
瞬間的に
すべてが愛に感じられる。
そうなったら
『最強』ですよ。
なにを言われても
なにをされても
刺さらない。
なにが起きても
動じない。
それどころか
何が起きても
しあわせを感じられる。
つまり
こわいものなし♪
そうなの。
本当は
本当は
自分の人生において
自分以上に
最強の登場人物はいないのです!!
本当の自分で生きられたら、
実はあなたは
あなたの人生において
無敵なのだ。
他人と比べなければ。
目の前でなにが起きても
自分からは
愛しか出てこないんです。
自分のまわりは
どんな時でも
とても居心地がいい
天使空間
なんていうことが
ありえるんですねぇ。
だから
どうして
あの時に
私は
そうなったのかなぁ
って
その答えが知りたかったんです。
もちろん
天使なその子の命が
私にくれた
贈り物だから、
とか
まわりに恵まれていたから
ということも
とても大きいのです。
そんなふうに
これは恵まれていると思える要素は
いろいろあった。
ラッキーだった。
でも、私が知りたかったのは
いくつもある要素じゃなくて
決定的な原因!
決定的な原因はなんだろう?
って突き止めたかった。
なにか
もうちょっと
深いなにかが
あると感じていたのです。
あの子の命の誕生がきっかけで
生まれてきた
本当の私。
本来の自分。
本当の自分が目覚めた答えが
何であったのかがわかれば
あの時に
子どもの命をきっかけとして
本当の自分に出逢った
その考え方ややり方が
わかるのになぁ
って
ずっと思ってたんです。
命って
あっぱれだって
きちんと伝えたいから。
そして、命ってあっぱれシリーズはまだ続く♪